可児市議会 2022-12-06 令和4年第7回定例会(第2日) 本文 開催日:2022-12-06
昭和40年代後半から名古屋市のベッドタウンとして右肩上がりで人口が増加し、若く元気なまちと言われてきた本市も少子高齢化が進むとともに人口が減少に転じ、新たな局面を迎えつつあります。可児市は、製造業と市民の消費力によって支えられているまちでございますが、このまま人口減少が進めば、労働力が不足するばかりでなく、消費力も低下してしまうことが懸念されます。
昭和40年代後半から名古屋市のベッドタウンとして右肩上がりで人口が増加し、若く元気なまちと言われてきた本市も少子高齢化が進むとともに人口が減少に転じ、新たな局面を迎えつつあります。可児市は、製造業と市民の消費力によって支えられているまちでございますが、このまま人口減少が進めば、労働力が不足するばかりでなく、消費力も低下してしまうことが懸念されます。
------------------------- 〔議案掲載省略〕 ------------------------- 決算特別委員会審査報告書 本委員会に付託の事件は、審査の結果次のとおり決定しましたので、多治見市議会会議規則(昭和51年議会規則第1号)第 109条の規定により報告します。
ちなみに、私たちより少し前の1970年、昭和45年ぐらいには、ゆうに 100万組を超えていたんです。結婚だけが全てとは申しませんが、やはり劇的に減少しているのは事実なんです。
まちかどスポットについては、昭和55年度以降整備を行い、現在は107か所を設置、管理しているところでございます。これらは、美しい景観を創出し、町並を豊かにするとともに、潤いや安らぎを感じることができる場であり、時には市民と観光客の触れ合いの場にもなっており、まちなかを散策する際の大切な空間であるとともに、観光資源の1つであると認識しております。
これにつきましては、議員さん御案内のとおり、当市では、将来、人口減少に伴う国内市場の縮小を見据えて、昭和61年に国際観光都市宣言を行い、いち早く海外誘客に取り組んできたところでございます。 現在、新型コロナ感染症の影響により外国人観光客は大きく減少しておりますが、市としましても、インバウンドが今後の成長分野として重要であることは変わっておりません。
昭和の時代であれば、このことから円高になり、強い円が輸出のブレーキとなりました。 また、刃物輸入は国別では中華人民共和国が1位です。輸入製品の価格が従来は安くて、地元刃物製品の価格が高くても円安の影響により、関市の刃物産地の価格で対処できるようになります。しかし、輸入原材料の値上げは企業利益に影響を与えます。
次に、 199ページの財政判断指数、これを適当にやってきたから人口が減ってきたんじゃないかというのは全くお門違いな話で、要は昭和の末期から平成にかけて一気に宅地開発で団地が広がって、相当な数の人数が増えました。
令和4年第6回定例会令和4年第6回高山市議会定例会会議録(第1号)=======================高山市告示第92号 地方自治法(昭和22年法律第67号)第102条第2項の規定により、次のとおり令和4年第6回高山市議会定例会を招集する。
昭和46年開設の寿楽荘、平成6年開設の福寿荘、平成15年開設の桜寿荘、敷地面積は3施設を合計すると4,473平米です。延べ床面積は、3施設を合計すると578平米、指定管理料は、3施設の合計で年1,534万8,000円、床面積1平米当たりの管理料は、3施設を合計して2万6,528円です。 自然ふれあい館です。平成14年に開設されております。敷地面積・延べ床面積は共に224.72平米です。
------------------------- 〔議案掲載省略〕 ------------------------- 総務常任委員会審査報告書 本委員会に付託の事件は、審査の結果次のとおり決定しましたので、多治見市議会会議規則(昭和51年議会規則第1号)第 109条の規定により報告します。
老朽空き家、これは昭和56年5月31日以前に建築に着工されたものでございますけれども、こちらにつきましては補助対象を解体費の3分の1、上限を20万円、そのうち県が2分の1、市が2分の1の補助をしてございます。
旧関市学校給食センターは、昭和57年に建設されました。市内小中学校への給食の提供を令和2年7月までの約38年間行い、その後、給食の調理等提供業務は、新給食センターへと移行いたしました。 旧関市学校給食センターの建物といたしましては、現在、建築後40年が経過しているところでございます。
旧関市街地では、昭和のベビーブームや経済成長に合わせて整備していただいた公園が数多く点在をしております。少子高齢化が進む昨今では、利用者の変化や子どもの利用の減少に伴って、私が見ているだけでも、使われていない遊具や砂場などが目立つようになっています。今後は、今の時代にマッチした公園に再整備する必要があると思います。
住民の架橋要望は大変強く、昭和初期になり、失業対策事業として架橋が事業化されました。橋は村道ではありましたが、工事は県が代行して行ったようでございます。 この保戸島橋は、当時多く採用された構造で、鉄筋コンクリートゲルバー桁橋として有名であり、また、その親柱も今はありませんが、昭和初期にはやったモダニズムを感じさせるデザインでした。
問屋町にある高山市公設地方卸売市場は昭和49年の完成から47年が経過し、老朽化しており、耐震にも問題があります。再整備の計画を打ち出されてから、ようやく令和4年度予算にて設計の費用が予算化され、具体的に整備が進められることとなりました。このことは市場関係者のみならず、問屋町周辺でも大変喜ばしく思っています。
〔農政部長林篤志君登壇〕 ◎農政部長(林篤志君) 水利権には慣行水利権と許可水利権があり、現河川法が制定された昭和39年以前から取水されているものについては河川法の許可を受けたものとみなす慣行水利権とし、河川法第23条の規定による河川管理者の許可によって成立している水利権を許可水利権というふうにしています。
戦後教育の変遷を見ても、明治から大正、昭和の初期にかけての学区の編成を見ても、もう市街地がこれだけ拡大して、中心部の空洞化が言われて久しい。岐阜でも多くの都市で市街地中心部の小学校が幾つ潰されてきたのかということも考えてみると、まちづくりそのもの。そういうことにも、やはり制度的に問題を抱えているなら、しっかり長期的視点に立って取り組むべきだと私は思っています。
花いっぱい運動は、戦後、まちが荒廃し、人々の心にも余裕が持てない中で、社会を美しく明るく住みよくする、また花を通じて人々の気持ちを豊かにとの願いを込めまして、昭和27年4月に、長野県松本市の一教師の提唱により始まったとされています。 本市におきましては、花いっぱい運動は、昭和59年に始まりました。
現在の日ノ出町の本庁舎、これについては、養正校区、昭和校区の皆さんの意見を最優先する。どういう建物を造るかというようなことではなくて、どのように使っていくのか。もっと言えば、市役所があるからというようなにぎわいではなくて、オリベストリート、この周辺に配置をされる小学校、中学校、高等学校、加えてスポーツ施設、多治見市陶磁器意匠研究所、文化、伝統、こういうような拠点として、さらににぎわい。
間瀬さんにつきましては、市内長坂在住で、昭和54年に名古屋国税局に奉職されて以来、岐阜北税務署長などの要職にも数々就任され、退職後は平成29年に税理士事務所を開業されておられます。 財務管理、事業の経営管理などに優れた識見をお持ちであり、人格も高潔で地域に対する愛着も深く、監査委員の職に適任であると考え、選任したいと存じます。